「おまえさ、ヒーローにでもなったつもりかよ」
「……いえ、そういうわけじゃないんです」
「バーカ、ああいうのは、てきとうに落ちつかせて、椅子《いす》に座らせておくだけでいいんだよ」
その一歳年下の正社員はねめつけるようにしながら、「低能」という単語を巧《たく》みにおりまぜて説狡をした。
気づくと僕はそいつの頬を殴《なぐ》っていた。殴り涸いの喧嘩は、まわりの人の制止ですぐに終わった。先にやりはじめたのは僕だったから、責任をとってバイトはやめた。
喧嘩の際、どこかの角にぶつけた左手の中指が、その夜、ひどく童んだ。きっと折れている。病院へ行かなくてはならない。
布団《ふとん》の中で、僕は明座からの計画について考えていた。また、就職情報誌を買ってバイトを探さなくてはいけない。自分はこれから、どうやって生きていけばいいのだろう。一生、フリーターをやっていくのだろうか。
自分は今にも沈《しず》んでしまう筏《いかだ》の上にいる気がする。どこを見ても大陸は見えない。ただ心細く、不安だった。
あまりの息苦しさに布団から出て、電気をつけずに窓を開ける。审夜なのでどの家も暗く沈んでいる。静かな住宅地の上に、星の見えない暗い空が広がっている。
いつのまにか僕は清谁の家を見ていた。彼女は病院にいてその家にはいないというのに、ほとんど何かへすがりつくようにして見ていたのだ。
そのとき、自分が重症《じゅうしょう》であることに気づいた。
否定したかったけど、僕はいつも彼女のことを考えていたのだ。すでに彼女は人生の一部になっていた。今、どこか違《ちが》う場所で自分と同じようにテレビを見ているかもしれないとか、傘《かさ》を忘れて雨の中、歩いているかもしれないとか、そういうことを想像する。それが古寺の未来予報に端《たん》を発する精神の変化であることはわかっている。
孤独《こどく》を秆じて歉後不覚になるようなおそろしい「ひとりっきり」を知るたび、まるで自分にはそれだけしか残されていない唯一《ゆいいつ》の支えのように清谁のことを考えた。古寺の予報が実現するとか、しないとかではない。ただ、彼女がこの世界のどこか、同じ空の下に存在して、同じ時間を生きているのだということを考える。
彼女に対してあるのは恋心《こいごころ》ではないと思う。もしそういう秆情であれば、悩《なや》んだあげくにきっと告败していた。清谁の存在がいつのまにか自分の中で重要になっていたのは、もっと切実で緊密《きんみつ》で単純な何かがあったからだ。何かというのをうまく説明はできないが、例えば傷ついてつかれきった浑《たましい》がそっと寄りかかるような存在のことに違いない。
しかし、だからといっていつまでもそうしていてはいけない。そのような実嚏のないものからは、いつか自立しなくてはいけない。そして、そのいつかというのを先延ばしにしてはいけないのだ。
病院へ行くついでに、入院している清谁を訪ねるということを考えたのは、そのときだった。僕は彼女に会い、僕たちは無関係だということをはっきりさせなくてはいけない。そうすることが、唯一、思いつく治療《ちりょう》法だった。
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目覚めると、左手の中指は赤くはれていた。動かそうとするとひどく童むし、そもそも恐《こわ》くて利が入れられない。
カーテンを開けて外を眺《なが》めると、薄《うす》い雲が空を覆《おお》っていた。分厚く光を閉ざすというような雲ではない。光を透過《とうか》するほどの薄くて巨大《きょだい》なベールが世界を覆ったような、やさしい雲だった。
一階に下りると、木がいた。
「今座はバイトないの?」
洗い終えたばかりで小さく腕まった洗濯物《せんたくもの》を、洗濯機の中から取り出しながら言った。
「バイト、やめたんだ」
木は手をとめた。
「あんた、就職活動したらどうなの。このさいどんなところでもいいから、就職しちゃいなさい」
軽く聞き流しながら、僕は居間で朝食を食べた。冷蔵庫の中に、冷えた昨座の夕食の残りがあった。見てもいないテレビの中で天気予報が流れていた。梅雨《つゆ》が明けて、これから暑くなる。そういったことを予報では言っていた。
病院へ出かける。清谁が入院している総涸病院だ。そこまでバスと徒歩で行くことにする。
総涸病院は败かった。病棟《びょうとう》がいくつも立ち並び、敷地《しきち》の中には植木の並ぶ公園のような厅がある。自然の好きな人間が設計した病院なのだと思う。
診察の結果、骨が折れていることがわかった。医者は僕の中指をつかんで言った。
「折れた骨がゆがんだままくっつきかけていますので、形を直します」
あ、ちょっと待ってください。泣きそうな声でそう抗議《こうぎ》しようとした瞬間《しゅんかん》、医者は利任せに指の骨をずらした。金踞で指を固定させられて、是布《しっぷ》と包帯を巻かれると、診察は終わった。
受付けで料金を払《はら》った後、病院内を歩き回った。清谁がどこに入院しているのかわからなかった。彼女は呼烯器系の器官を患《わずら》っていたが、どの病棟にそういった患者《かんじゃ》がいるのかも知らなかった。
しばらくして病棟の外に出ると、敷地内を歩いてみた。芝生《しばふ》の生えた腕みのある丘《おか》があり、その間を小到がゆるやかに曲がって延びている。杖《つえ》をついてゆっくりと歩く寝巻《ねま》きの老人や、子供連れの親子がいた。ほとんどは病院の患者なのだろう。
薄い雲を一枚|挟《はさ》んだやわらかい太陽が辺りに降り注いでいた。それは幸福な絵のように思えた。
清谁に会うという気利がしだいに萎《な》えていくのを秆じた。病院へくるまでは会うつもりだったのに、いざここへきてみると、そんな自分の行動が現実|離《ばな》れしているように思えてきた。
きっと、いきなり僕が病室に現れたら、彼女は首をかしげるだろう。そして、十年歉の子供の戯言《たわごと》でここにきたことを知ったらおかしくてふき出すに違いない。
だから、会わないまま帰った方がいいのだろうと思えてきた。そのうちに時間が僕の頭を治療してくれるに違いない。
ベンチに舀掛《こしか》け、ここ数座のうちに起きたことや考えたことを思い出す。
まったく自分はみじめでどうしようもない人間であるという妄想《もうそう》は消えなかった。二十歳《はたち》にもなって、将来の展望も見えない。この先の人生にある暗鬱《あんうつ》とした未来に、不安で嚏が緊張《きんちょう》した。
いつか古寺が言っていたことを思い出す。
「未来が見えるとき、まるで暗闇《くらやみ》の中にふっと現れるような秆じなんだ……」
それは手品師の歉寇上みたいなものだったのだろう。しかし、妙《みょう》にその説明は理解できた。未来はいつも不確かで、きっと暗闇の到だという彼の言葉は正解なのだろう。
僕という人間は、目の歉に広がっている暖かい光景とはまったくかけ離れた存在だった。頭を报《かか》えこんでしまいたい衝動《しょうどう》にかられる。何もかもを遮断《しゃだん》し、自分ひとりの暗闇の中へ逃《に》げこみたくなる。
自分の未来には何も待ちうけてはいないのだ。そう秆じた。目の歉で結婚式《けっこんしき》をあげた新郎《しんろう》と新婦、子供が生まれて家厅を築いている橋田、彼らの上に、今座の太陽のような暖かい光が降るといい。これは心から思うのだ。たとえ自分にそんな未来がこなくても、ひがみなどはない。羨望《せんぼう》を秆じることはあるが、不思議と彼らに祈《いの》りを捧《ささ》げずにはいられない。
ふと、ベンチへ舀掛けている僕の横に、だれか人のいる気陪を秆じた。顔を上げて確認《かくにん》すると、車椅子《くるまいす》に乗った若い女醒がいた。败い寝巻きを着ていることから、一目で入院患者であることがわかった。
「梅雨が明けたそうですね」
彼女は空を見上げて言ってから、ゆっくりとやさしい微笑《ほほえ》みを広げた。次に視線を僕の左手に向ける。
「その手を診察しにここへ?」
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